そして辞表

奇跡のような確率の会社に入れた私。喜びもつかの間、まずは今の仕事を辞めるという作業が残っていました。これは思っていた以上に緊張しました。

アメリカの会社は、Employment at willが基本。つまり、自分の意志でいつでもやめることも、会社の意志でいつでも辞めさせることもできるということ。両方が自由な意思を持っています。だから辞めるという人間を無理に引き留めることはできません。

それはわかっていても、やっぱりこれまで2年以上お世話になった会社ですから、辞めると言い出すのはかなり緊張しました。



辞表の手紙は、すでに何回も下書きして完成させていました。それを提出するのは簡単ですが、やっぱりちゃんと会って、話をするのが礼儀。

ちょうど時期的に7月4日の独立記念日休日が入るので、その前を最後の勤務日にしたい。辞める2週間前にNoticeするのが礼儀ですから、そうなると、もうぎりぎりのタイミング。その日しかないと意を決して辞表出しました。

何を言うかは、何度も何度も頭の中で考えてきました。

まだ仕事が決まっていない時から、つらいときには、辞めると言っている自分を想像していたものです。その時、この会社の嫌なことをたくさん上げてみたりしました。

それでも、結局、飛ぶ鳥跡を濁さず。英語では、Don't burn your bridges. 

会社の文句は言わず、何がつらかったのか、自分の立場からのつらいことを言いました。

それは、大企業からやってきて、今の会社に入り、あまりにもギャップがあったこと。覚悟してきたつもりだったけど、どんどん日々やっている仕事が当初言われていたこと、自分で想像していたことと離れていったこと。もともとかなり専門の仕事を資格ももってやっていたので、もう一度その専門分野に戻ることにした。これだけをお話ししました。

これ以上は、心の中に仕舞いました。辞める会社に文句を言っても始まりません。むこうは、何がうまく行かなかったのか言って欲しいというようなことを言いましたが、私は言いませんでした。自分のわがままで辞めることを強調。それでよかったと思います。

本当のところは、何もかもが理想と違っていて、聞いていた話とも違っていた。蓋をあけてみたら私は4人の上の人のアシスタント扱い。やっている仕事の80%はこれまでの経験がなくてもできるような仕事。そして給料も全然思っていたほど上がらなかった。転職前と実はあんまり変わっていないのです。それでも辞めてきたのは、将来的に私の専門を活かしたビジネスを展開していき、それに合わせてお給料もコミッションがプラスになるからということだったけど、そのビジネスが日の目を見ることはありませんでした。

更には、もともといた会社では、自分の顧客をもって、100%自分の責任で担当の顧客の仕事をしていました。上司に文句を言われたり、指図されたりすることはほぼほぼない立場にいたのです。転職後の今の会社には、上には4人いました。その4人からどんどんいろんなことを指示されるけど、的確ではないのです。指示もぼんやりだったり、私が明らかにわからない分野のことを急に言われたり。そんな中、がんばってやってみても、仕事は毎回ダメ出し。私はこのダメ出しにより、全然自信がなくて、頭が悪い自分と思い込んでいました。実際そういうことを口に出すようになっていました。そして極めつけは、ずーっと専門で苦労して資格ももってやってきたのに、転職後、活かすことができるはずだったその専門を活かすことがゼロ。まったくなくなってしまったことでした。

お給料頂いていて、フルタイムのポジションはありがたかったので、毎日仕事はこなしていましたが、自分の中で、これまでの経験、知識を生かせない状況が本当につらかった。1年は、がんばろうと思ってやっていたのですが、ちょうど1年たったころ、会社内の人とうまくやっていけなくなり、辛くて精神的にどうしようもなくなるという状態に。仕事は我慢できても、人との関係は辛いです。それから2年目からは転職しようと思うようになったのでした。

その私の中でのギャップがこの写真によく表れています。なんだかわかるでしょうか?

これ、プリントしたものを製本する英語でいうBinding Machineです。
マシーンとはいえ、手動。転職してすぐこれを使って何十部という製本をしなければなりませんでした。前の職場には、プリントする部門があって、顧客に対するプレゼンはメールでその部に送ると、どんなに複雑なリクエストでも1日で、きれいに製本されてきました。だから偉そうに言ってしまうと、こんなものは使ったことがないのです。使い方もわからず、簡単な作業に四苦八苦。1日をこれに使ってしまいました。1日が終わったころには大げさではなく涙が出てきたのです。これをやりながら、こういう仕事をするために転職したのか?と考えたものでした。わたしが仕事に求めていたことと、この会社が私に求めていたことがまったくかみ合っていなかった。それが現実だったのです。

それでも与えられた仕事に感謝して、お給料いただいている身だし、がんばりましたよ。この製本機で、作ったプレゼンは、この2年で何百、下手したら千超かも。辞める最後の週も、これで約60部ほどプレゼンを作りました。それをやりながら、がんばったよなあ。これももうやることはないかなあと、ちょっと感傷に浸りました。

でもこの経験があったからこそ、また転職する機会にも恵まれたのです。決してこの2年半のステップは無駄ではなかったと思っています。

新しい職場でも辛いことはあるかもしれない。その時は、このBinding Machineをやりながら涙した自分を思い出して頑張っていこうと思います。








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