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3月, 2020の投稿を表示しています

持つべきものは友

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昨日、お隣の州の友人からパッケージが届きました。 地元のコーヒーショップでしか手に入らないコーヒー豆と、手作りレモンバー。なんて優しいんだ。毎日家でずーっと仕事していて、あまりいいニュースもなく、落ち込みがちですが、少し気持ちがほっこりしました。

外出禁止の毎日 - アメリカの経済対策

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幸い私の仕事は家でも問題なく出来、また職種も今の状態に左右されず、心配ない状態。これは本当に恵まれていますし、昨年転職したのもタイミング的に良かったと思わずにいられません。今の状態は予期出来なかったことですが、全てがうまく行きました。感謝の毎日です。 うちの長男みていてもそうなのですが、世の中、外出禁止ということは、ありとあらゆる職種で仕事がありません。唯一あるのは、一時パニック買いで大変だったスーパーですが、パニックの時に雇い過ぎて、今は時間が減らされている従業員も多く出ていると、息子の友達で、Costco で働いている子が嘆いていました。時給で働く場合は、時間が減らされればお給料が減るわけで、しかも失業ではないので失業保険だって出ません。考えただけでも、この国で、今大変な思いをしている人の数があまりにも多過ぎます。 そんな中、ようやくコロナウィルス対策が議会で可決されました。

そして誰もいない

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外出禁止令が出て初めての週末。 どんな感じになるかなあと思いましたが、想像以上にみんなちゃんと家にいます。ずっと家に篭っているのも辛いので、散歩してきましたが、ご覧の通り、いつもは車でいっぱいの大通りもガラガラでした。

アメリカがんばれ

このコロナウィルス、アメリカは、買い物の状況や、検査の状況はパニックではありますが、毎日の生活はごくごく冷静です。そしてこれもアメリカらしいと思うのは、色んなところでヘルプの手が延びているところ。 スーパーでは、どこも朝はシニア、ハイリスクな人向けの専用時間を設けています。それがちゃんと機能しているかは、まだ疑問ですが、でもそういう心がけがすごいなと思います。 また学校が閉鎖されたため、ランチや朝食が食べられない家庭の子供のために、フリーランチが学校から支給されています。うちの学校区では、18歳以下の子供なら誰でも無料で受け取ることができます。一定の時間に取りに行くと、ドライブスルーのように渡してもらえるそうです。

外出禁止令

とうとう、うちの州も外出禁止令が発行されて、今日から食品の買い物、医療関係、ガソリン、銀行等の必要以外の外出は禁止となります。 これが出たのが金曜の午後3時。いよいよ出そうだという情報は、朝流れてきて、午後1時くらいには、3時にガバナー(州知事)の会見で発表とわかってきたので、すぐに食事の買い物に出ることに。スーパーは閉まらないとはわかっていましたが、ここ一週間のアメリカのパニクップリから、しばらく肉や野菜はお店から消えてしまいそうだしと思い、車で20分くらいの韓国巨大スーパーに肉類を買い出しに行ってきました。その時、まだ2時くらいでした。

アメリカのパニックっぷり

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1週間前には、日本へ留学するはずだった息子のことで頭がいっぱいだったのに、一週間でこうも違うのかというくらいアメリカの状況は深刻に。 ちょうど一週間前の水曜日、3月11日にたまたま私はいつも家で働く日があるので家にいました。会議があったのですが、6人中5人がビデオで参加。会社からはまだ何の方針も出ていなかったのですが、すでに個人で判断してマネージャーも家で働く許可を出している様子。 その夜、うちのマネージャーも、全員に家で仕事を許可。同じく会社からも自宅勤務を奨励するというメールがきました。この時はまだ奨励であって、出社したかったらしてもいいよくらいの感じでした。 そして木曜日。私は諸事情があったので出勤してみると、ほぼ誰もいませんでした。

本当にご無沙汰しました。今のアメリカ

なんと気がついたら4か月もの間ほったらかしていたブログですが、今のこのアメリカの状況で、黙ってはいられないような気持ちになり、書かせて頂きます。 まずみなさんお元気ですか? コロナウィルス、アメリカでは、COVIDー19と使うようになっていますが、全世界で大変な状況。私は実は息子が日本にこの4月から留学することが決まっていたため、日本の状況をずーっとフォローしていました。そのため、今のアメリカの状況については、心の準備ができていたというか、それほどパニックにはなっていません。ただ周りは大変なことに。それは後ほど。 まずは息子のことから。 彼がこの留学に行くことになって、準備をしていたのは、もうだいぶ前から。これのために今の大学に入学したと言っても過言ではありません。ということは、2年間気持ちを準備していたということ。飛行機は1月にとり、後は出発の3月11日を待つだけというような状態だったのです。